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大阪高等裁判所 昭和35年(ネ)1265号 判決

控訴人 鶴山正治 外二名

被控訴人 生田善治

主文

控訴人等の本件控訴はいずれもこれを棄却する。

控訴費用は控訴人等の負担とする。

事実

控訴人等は「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は主文と同旨の判決を求めた。

当事者双方の主張証拠の提出援用認否は、

控訴人において、

原判決は左記(一)乃至(六)の事実を根拠として控訴人奥山辰之助(以下単に辰之助と略称することがある)が被控訴人から賃借しているその所有の大阪市北区曾根崎中一丁目五四番地上家屋番号同町九一番、木造瓦葺二階建店舗三戸建一棟の中南端の一戸、建坪約八坪二合五勺、二階坪五坪二合五勺(以下本件家屋と略称する)を控訴人鶴山正治(以下単に鶴山と略称することがある)に転貸したものと認定した。

(一)、本件家屋における生魚商営業についてその屋号を〔屋号省略〕(やましよう)と改めたこと。

(二)、右営業は昭和三二年八月一日以降株式会社大北の第二二営業所として鶴山がその主任者となつていること。

(三)、右営業の休業中辰之助が被控訴人に対して本件家屋の転貸承認の申入をしたことがあること。

(四)、鶴山が控訴人奥山イワ(以下単にイワと略称する)と本件家屋において生魚商を再開する際に被控訴人宅に清酒を持参し被控訴人に対して今後鶴山が本件建物で商売するからよろしく頼むという趣旨の申出をしたこと。

(五)、辰之助と鶴山との間に賃金若しくは利益分割の歩合に関し何等明確なとりきめがなされていないこと。

(六)、イワは本件家屋の一部を使用して鶏卵販売店を営んでいるのであるがイワの右営業と鶴山の生魚販売営業とは別会計となつていること並びにイワは右生魚販売営業には関与していないこと。

しかしながら、

〔屋号省略〕という屋号は辰之助が奥山の山と鶴山正治の正を結合して案出命名したものである。この屋号採用の経緯に徴しても再開後の生魚販売営業の主体は辰之助であつて鶴山でないことをうかがうことができるのである。辰之助が営業再開にあたつて新屋号に鶴山の名の一字を採用したのは、休業前約一年余りの間高田保を番頭として営業をしていた当時右高田が大阪中央市場その他に対し多額の負債を生ぜしめ経営に行詰りを生じて遂に休業の止むなきに至つた次第であつて、辰之助において営業を再開すれば当然旧債の取立も厳しくなるものと予想せられたためその対策上鶴山の名の一字を屋号に入れたものに外ならない。

株式会社大北というのは、大阪市北区内所在の生魚販売の個人商人等がその営業に関し各個に賦課徴収される所得税等の各種の公租公課をとりまとめ統一的に納付その他の処理をする便宜のために設立した納税組合的実体を有する法人であつて、この法人をもつて外形上単一の営業主体たらしめ、その構成単位たる各店舗は大北の営業所として事実上は従前のとおり各独立の計算において営業を続け各店舗における仕入、売上を大北において集計し大北の名において納税するのである。したがつて或る店舗が賃借した家屋で営まれているものであればその賃料は当該店舗の実質上の主宰者である従前からの商人がその計算と名において家主にこれを支払つているのであるし、店舗内に所在する什器備品等もすべて当該個人たる商人の所有に属する物である。辰之助が本件家屋における営業を右大北の第二二営業所としその主任を鶴山としたのは前記の負債取立の対策上の必要と、今一つの理由は鶴山が以前生魚商川春在職当時から中央市場関係商人によく顔を知られていて商品の仕入等営業上に便宜と考えられたためである。営業再開後の中央市場からの仕入はすべて鶴山の名義でしているのである。

辰之助が休業中に被控訴人に対して本件家屋の転貸の承認を求めたことはある。しかし町会長森本を通じてその承認を求めたことはない。第三者から辰之助が休業中ならば転借したいとの強い希望があつたので止むなく右申出をしたのである。辰之助自身としては転貸の意思は毛頭なく信頼し得る番頭を探し出して営業を再開したいと考えていたので一応被控訴人に右申入をして右転貸借の申出を拒絶する口実を整えようとしただけにすぎない。被控訴人に転貸承諾方を求めた者は転借を希望していた右第三者でもなく鶴山でもない。

営業再開に際して鶴山とイワが同道して「鶴山」と表示した清酒を携えて被控訴人宅に挨拶に訪れたことは認める。右清酒は営業再開につき辰之助に対してお祝いのために贈られた酒の中から持参したものである。その際仮に「今後鶴山が商売をする云為」と言つたとしてもそれは単にいわゆる言葉の綾というものでこの言辞を捉えて再開後の営業主の何人であるかを決定するのは相当でない。鶴山を爾後番頭として営業を再開することとなつたので営業主として辰之助が儀礼的意味で同人を被控訴人宅に挨拶に行かせたのである。

辰之助は鶴山の雇主であつて辰之助と鶴山との間の関係は雇傭関係である。そして鶴山に対する報酬の額が通常の雇傭の場合の如く一定金額のものとして、若しくは収入、利益に対する一定の割合のものとしては定められていないことは認めるが、しかも鶴山に対する手当についての基本は明確に定められているのである。すなわち鶴山が現実に必要とする生活費は辰之助が必ずこれを負担しているのであつて、その具体的額は営業純益の略々三割相当額となつている。鶴山は毎月合計額としては略々一定して右相当額を生活費として入用の都度自ら適宜持ち帰つているのである。鶴山が辰之助の一使用人でありながらこれに対する賃金が毎月一定額のものとして定められていない理由は、辰之助、イワの夫婦は一人息子の盛一の精神病療養のため約一〇年前奈良県生駒郡平群村鳴川に療養生活に必要な限度で一部居を移し昭和三一年五月頃休業するまでは夫婦交替で療養地と本件家屋の間を往復して営業を続けるほかない状態で、自ら営業経営にのみ全力を傾注することが困難であつたため勢い従業員に信頼し事実上経営の大部分をこれに委ねることになり、特に番頭の地位に在る者には重い負担と努力を求める結果となつた。そこで番頭に営業経営に対する自発的奮励をなさしめる一方法として歩合制度と一応不自由のない生活を保障するに足りる手当の支給の実現の双方を兼ね具えた報酬を獲得せしめるため上記のような支給方法を採用したのである。なお生魚販売営業の特殊性から考えても上記のような方法による使用人の報酬の定め方は適当なものなのである。

イワも自分にできる範囲においては生魚商の手伝もしているのであるが何分にも既に七〇才に近い老齢であるから激しい労働を必要とする生魚商の運営について他の若い店員と同じように関与することは体力の許るさないところである。そこでいわば年寄りの愉みという意味で生魚商の方も手伝うかたわら本件家屋の店舗の軒先の一隅で鶏卵の販売をしてその利益をイワの小遣いに充てているというのが実情である。

以上の次第であるから前記(一)乃至(六)の事実を捉えて本件家屋につき被控訴人主張の転貸借がなされた事実を認定する資料とすることはできない。更に左記の(一)乃至(四)の事実によれば辰之助が鶴山に本件家屋を転貸した事実はなく本件家屋は依然として借主たる辰之助が自ら営業主として生魚商を営んでいるのであつて、鶴山は単に辰之助の右営業上の使用人であることが明かに認められるのである。

(一)、昭和三二年三月辰之助が本件家屋で営業を再開する際に新たに電話が設置せられた。その架設費用は辰之助において負担支出したのである。加入名義は辰之助が当時なお奈良県生駒郡平群村鳴川において住民登録をしていたので本件家屋の所在地に住民登録を有していた妻イワの名義としたのである。若し被控訴人主張のように鶴山が本件家屋を辰之助から転借して営業を始めたのであるならば右電話の架設費用も鶴山において負担すべきものであるし加入名義も当然鶴山正治とすべきものである。辰之助は右営業再開の資金として自ら約五〇万円を他から借用したのである。

(二)、本件家屋の所在地はいわゆる北の盛り場であつて顧客は料理屋等の大口需要者である。右のような場所的利益、得意先関係その他営業関係一切を含めて本件店舗を譲渡するとした場合老舗料として金六〇〇万円乃至八〇〇万円と評価せられるべきものであることは明かであつて、このような莫大な価値を有する本件家屋における店舗、営業を辰之助が僅か五〇万円の対価を得て鶴山に譲り渡すとは到底考えられないところである。のみならず鶴山が元の就職先の川春を退職した際に支給を受けた退職金は二〇万円にすぎずそれ以外に別段の財産を有するわけでもないのであるからたとえ本件店舗、営業が五〇万円という破格の廉価で譲渡せられるとしても鶴山には到底その支払能力はなかつたのである。また再開以後の取引における顧客はすべて辰之助が休養以前に取引していた顧客と同一なのである。

(三)、辰之助、イワ夫妻はその子息盛一の病気療養の必要から昭和二五年前記平群村に移転した。当初は同村鳴川の真言宗の寺院千光院に仮住居を定め信仰生活による病気回復を計り併わせて医師の手当も受けていた。やがて同村の吉川某所有の納屋を借り受けて約一年間住居にあて、次で同字の西岡弥三郎所有の納屋に移住したのである。辰之助とイワがこのように平群村に居住したのはもとより唯盛一の療養のための必要に出た外他に何等の理由や目的があつたわけではなく、世帯道具等も本件家屋に置いたままで、平群村の居住先においては附近の村民等の厚意で借りて用を弁じていたのであつて、その間を通じ夫婦交替で営業の監督のため終始本件家屋に出向いていたのであるし、生活費はもつぱら本件家屋の店舗収益で賄つていたのである。平群村に住民登録をしたのも盛一の療病につき健康保険の適用を受ける便宜と必要に出たに外ならない。その後平群村鳴川の住人岡田正信の厚意で盛一はその同居人として住民登録をなし得たのでイワは昭和三一年五月再び本件家屋の所在場所に住民登録をし、その後昭和三四年八月頃になつて盛一が奈良市あやめ池町所在の吉田病院に入院することができ終始病人に附添う必要がなくなつたので辰之助も本件家屋所在場所に住民登録をしたのである。

(四)、辰之助と鶴山の父とは古くから特別懇意な間柄であつて鶴山の生い立ちや性格を知悉していたのでこれを番頭に選び同人を信頼して営業経営に関与させているのである。

以上の次第であつて本件家屋における営業は休業以前と再開後とでその経営状態において実質上何等の変更はなく従業員が交替しただけである。唯辰之助、イワ両名ともに鳴川に移転した当時からすればすでに一〇年を経過したことでもあるので体力の老衰は争はれず自然営業運営の事実上の行為に関与することが少くなつているというだけのことであつて、営業の主体が実質的に辰之助である点については何等の変更はないのである。

本件家屋の賃料が数次の改訂を経た後被控訴人主張のとおり金七、〇〇〇円と約定せられていることは認める。〈立証省略〉

と述べ、

被控訴人〈立証省略〉

外原判決事実記載と同一であるからこれを引用する。

理由

本件家屋が被控訴人の所有に属することは当事者間に争がない。

控訴人等は、本件家屋は控訴人奥山辰之助が賃借権に基き自らこれを占有使用して生魚販売の営業をしている。控訴人鶴山正治は奥山辰之助の単なる使用人として奥山辰之助の右営業を事実上補助するものにすぎないと主張する。

被控訴人が控訴人奥山辰之助(以下理由の記載を通じ辰之助と略称する)に対し、昭和一一年九月一〇日賃料一箇月金三七円と定め期間は定めないで被控訴人所有の本件家屋を賃貸したこと、賃料額はその後改定せられて昭和三二年四月当時は一箇月金七、〇〇〇円と約定せられていたこと、並びに辰之助は右賃借以後本件家屋においてその二階に居住し、階下を店舗として引続いて生魚商を営んできたこと(その終期は後記認定のとおりである)は当事者間に争がない。

弁論の全趣旨によつて成立の認められる乙第一号証、成立に争のない乙第四乃至第六号証、当審における証人岡田正信の証言並びに原審と当審における控訴人辰之助の本人尋問の結果を総合すれば、控訴人辰之助、同イワ夫婦の子奥山盛一(大正一〇年八月二日生)が昭和二三年五月頃以来癲癇兼癲癇精神病のため痙攣の発作を起したり精神異常の状態を呈するようになつたので始めは大阪市内の医師の治療を受けていたがその後安静と信仰による療養をさせるため辰之助夫婦が付添つて盛一を奈良県生駒郡平群村所在の真言宗の寺院千光院に転居させ、約一、二年後同村大字鳴川の吉川昌治方納屋を借りてここに移転し更に約一年後同村同字内の元西岡弥三郎が住んでいた小屋に移転し、その間引続き辰之助夫婦は盛一と起居を共にしてその療養看護にあたり、本件家屋で営んでいた生魚販売の営業の運営処理一切をもつぱら番頭の高田保に委かせておくほかなかつたところ、右高田保の業務処理が適正を欠いたため漸く魚介類の仕入先である大阪中央市場の仲買人等に対する買掛代金の負債が積つて遂に営業が行き詰まりやむなく昭和三一年二月頃から休業し本件家屋における店舗を閉じて昭和三二年二月頃に及んだことが認められる。

以上認定の事実によれば、盛一の転居に伴い辰之助夫婦もその事実上の生活の中心を本件家屋より奈良県下の右認定の場所に移したものと認められるのであつて、辰之助等がその後も引続き大阪市の本件家屋を現実の生活の場所としていたものとは到底認めることができない。

そして昭和三二年三月頃から以来本件家屋階下部分の店舗(以下単に本件店舗という)で生鮮魚介類販売の営業が継続せられていること並びに控訴人鶴山正治(以下鶴山と略称することがある)が右営業の事実上の運営に干与していることはいずれも当事者間に争がない。そこで辰之助と鶴山とがそれぞれ右営業につき如何なる地位に在り、如何なる関係を有するものであるかを考える。

前記乙第四乃至第六号証、原審における証人山田光治、生田種雄の各証言、当審における証人岡田正信の証言、原審及び当審における控訴人鶴山並びに控訴人辰之助各本人尋問の結果(上記証言並びに各本人尋問の結果の中いずれも後記信用しない部分を除く)によれば、辰之助夫婦は前記のように奈良県下に転居した後数年を経てなお盛一の病疾が軽癒しないために、その間盛一の傍らを離れることができなかつたし、そのうえ辰之助夫婦がもはや老齢に達して日々の仕入や販売に激しい労働を必要とする鮮魚商営業は到底自ら経営することが望み得られない状況にあつた。そこで前認定のとおり暫く高田保に一任して営業を継続して結局休業の事態に立至つた次第であるが、従前右営業の収益以外には格別の財産も有していなかつた辰之助夫婦としては盛一の療養費及び親子の生活維持の必要上永く右営業休止の状態を続けることは許るされないので一時は終局的に右営業を廃止し他の商人に本件家屋の賃借権を譲渡するか、これを転貸し老舗等右営業上の権利も譲渡し相当額の対価の収入を得てそのまま奈良県下に定住しようと考えて貸主たる被控訴人に対し昭和三一年一一月頃本件家屋の賃借権を譲渡し若しくはこれを転貸することについての承認を求めたが被控訴人はこれを拒否したことが認められ、原審及び当審における控訴人辰之助本人尋問の結果の中右認定に反する供述は措信できず他に右認定に反する証拠はなく、成立に争のない乙第七号証、昭和三四年一一月一〇日本件家屋の店舗を撮影した写真であることが当事者間に争がない検甲第一号証、当審における証人畑野正一の証言によつて成立の認められる甲第六号証の一、二、当審における証人畑野正一、岡田正信の各証言、原審及び当審における控訴人鶴山及び同辰之助各本人尋問の結果(以上の証言及び本人尋問の結果の中前記及び後記の信用しない部分を除く)によれば次の事実が認められる。

前記休業に至るまでの営業には「おくやま」の屋号が使用されていたのであるが昭和三二年三月五日以来本件店舗で続けられている営業は〔屋号省略〕(やましよう)の屋号で行われている。右屋号は営業開始の初めに辰之助の考案に従つて「奥山」の山と「鶴山正治」の正を結合して命名したものである。右営業開始にあたつては辰之助がその親戚等から借り受け調達した約五〇万円の中から支出した費用をもつて昭和三二年二月中頃本件家屋の店舗を改造修繕した外開業当初の営業資金も右金員の一部をもつて充てたのであり、また右店舗に設置せられ主として右営業用に使用せられている電話((34)三四八九番)は辰之助がその負担においてイワの名義で加入し設備したものである。本件家屋の店頭には「株式会社大北第二二営業所」と表示した木札が掲げられているが、株式会社大北というのは大阪市北部の鮮魚介の個人商人等がその各営業所得税その他営業に関する公租公課の申告納入等の手続を自らする煩を避け納税等の円滑な実行を期するために組織し設立した株式会社であつて、対外的関係においては形式上同会社をもつて単一の鮮魚介類販売の営業主体たるものとし、同会社がその名において前記納税義務者の地位に立ち、加盟している各個人商人は実質上は依然としてその名と計算において営業を継続しながら一面形式上は同会社の分立散在する営業所の主任の資格と呼称とを有するものであつて、本件店舗における前記営業については、昭和三二年八月二一日これを同会社第二二営業所となし控訴人鶴山が同営業所主任となり、同会社がその営業所として参加している各商人に割り当て徴収する会社経費も右第二二営業所については控訴人鶴山を名宛人名義として請求し、控訴人鶴山がその名と計算においてこれを納付している。前記〔屋号省略〕の営業は控訴人鶴山が自らその名と計算において前記中央市場から鮮魚類等を仕入れ、その支払をなし、本件店舗において数人の店員を自ら直接指揮監督しこれを使用して販売、配達、集金の事務を遂行しているのみならず、右営業の必要から三和銀行に鶴山名義の取引口座を設けている。ところで控訴人鶴山は本件店舗に関与する以前約九年もの間佐野治三郎の経営する同北区曽根崎上三丁目の鮮魚商「川春」に雇はれ店員若しくは番頭として働き、鮮魚商の経営の実務に深い経験を積んでいるばかりでなく前記中央市場出入の仲買人や取引先の料理屋や寿司屋の間にも弘く名前を知られていたのであり、一方辰之助は前記のように被控訴人の承諾を得られないため適法に本件家屋の賃借権を譲渡したり転貸することは到底実現することができないことを知つたので辰之助の使用人ということで第三者を引き入れ表面上は飽くまで自分が営業主であるような外観を維持しながらその第三者をして営業を行なわせてその営業利益の分配に与り因つて実質的には賃借権を譲渡し若しくは転貸したのと同一の効果を挙げようと考え、昭和三一年末頃から昭和三二年一月頃にかけて旧知の鶴山正治に対し本件店舗をまかせるから来てくれと頻りに勧誘説得した結果鶴山も辰之助の右申出を応諾し遂に当時四万五、〇〇〇円乃至五万円の給料収入を得ていた前記川春を退職して本件店舗での営業に関与することになつたものであるが、控訴人鶴山は辰之助との協定によつて辰之助から定期的且定額の金員をその労務に対する報酬として給料名義で支給を受けるのではなくして、右の営業利益の総額につき当初はその約三割、仮にはその約五割相当額の限度以内で生活費その他の必要に応じ随時任意の金額を直接収取し得るものとし、爾余は辰之助において取得することとなつていたのであつて、この方式に従い具体的数額としては当初は三万円乃至三万五、〇〇〇円が毎月鶴山の所得となりやがて四万円更に五万円に逐次増加し、昭和三六年三月頃以降は一箇月に五万五、〇〇〇円を取得するようになつているのである。また昭和三二年三月以後においては、前記休業以前の辰之助の開拓した顧客の外に鶴山の前記川春勤務当時からの関係で新たに獲得した料理屋や寿司屋等を顧客として営業が成り立つている。辰之助は昭和三四年九月三日付で前記奈良県下の転居先から本件家屋の所在場所に転入したものとして住民登録の届出をしたけれども、事実上はなお従来どおり盛一の療養先に起居して看護に当つていて一箇月の中に合計して約一〇日位は本件家屋に出向きその際に右営業収益の一部宛を鶴山から受領するのであるがその日の中に盛一のもとに帰ることが多く、本件家屋にはせいぜい一泊することがあるにすぎない。控訴人イワはすでに昭和三一年五月七日付で奈良県下から本件家屋の所在場所に転入した旨住民登録の届出をなし、昭和三二年三月本件家屋の店舗で前記営業が開始せられると略これと前後して店頭の軒先下の一隅に置いた木の台に箱を載せその中に盛つて鶏卵を販売しているがその収支の経理は前記鮮魚販売とは別個にイワの計算において行なはれているのであつて、イワは時に奈良県下の盛一のもとに往復することもあるが主として本件家屋の二階に起居しているのである。辰之助夫婦所有の提灯箱洋服箪笥炊事道具等家財道具の一部がなお本件家屋に置かれている。控訴人鶴山は右営業開始後間もない頃約一年間その妻と共に本件家屋に住み殊に寝起きの場所としては本件家屋の二階を使用していたこともあるが妻の出産を機会に以前からの住居である同市東淀川区柴島町三八五番地に帰つて母や子供と共に生活しているのであつて、夜間の注文その他の用務は本件家屋に宿泊せしめている住み込みの店員にこれを処理せしめることにしている。なお店舗の使用に牽連して必要あれば日常随時任意に二階部分も使用しているのである。

以上の事実が認められ、原審及び当審における控訴人鶴山及び控訴人辰之助の各本人尋問の結果並びに当審における証人岡田正信、同畑野正一の各証言中右認定に牴触する部分は右各証言並びに各本人尋問の結果を相互に対比しかつ弁論の全趣旨に考えて信用することができず、その他には前記認定を覆えすに足りる証拠はない。

以上認定の各事実を総合考察するときは、本件店舗における「やましよう」の屋号による営業成立に関して、控訴人辰之助と控訴人鶴山の間に存する関係は、外見上明示的には唯辰之助から鶴山に対して本件家屋の店舗をまかせるから来てくれとの申出をなし、鶴山がこれを応諾したという形式の合意が成立したにすぎないのであるが、表見上の合意形態の右のような簡易粗笨さにも拘らず右合意の内容として黙示的に成立した実質的内容は「辰之助が従前生魚販売業を経営し現在は休業の止むなきに至つている本件店舗並びにこれに設置した電話その他の場所的物的施設並びに鮮魚類販売の顧客関係等一切を期間を定めず無償で鶴山に提供してその利用に委ね、なお必要に応じて本件家屋の二階部分も鶴山において任意自由に使用し得べくまた開業当初の営業運営資金も辰之助が他から調達した金員を鶴山に供与してその任意の費消に委ねること。鶴山は本件店舗等従前辰之助に属した営業組織一切を使用しもつぱら鶴山独自の判断と企画と努力により、その名と計算とにおいて鮮魚介販売営業を行い、辰之助との間において一定の割合(当初の頃は辰之助が約七割鶴山が約三割、やがて鶴山の取得率が次第に増加して遂に双方折半となつたことは前認定のとおりである。)に従つて営業利益を分配すべきこと。」を約する趣旨であつたものであり、控訴人鶴山は右約定に基き控訴人辰之助から設定を受けた本件家屋の階下部分の店舗(建坪約八坪二合五勺)並びに二階部分(約五坪二合五勺)の使用関係を場所的物的営業施設の基礎とし且辰之助の調達した金員を当初の仕入等の資金に充て昭和三二年三月五日以来前記「やましよう」の営業を自ら主宰経営しているのであつて控訴人辰之助の営業上の使用人たる地位に在るものではないことを認めることができる。したがつて控訴人鶴山は前記使用関係の設定に基き控訴人辰之助から承継して本件家屋の直接占有を有しかつ控訴人辰之助に対する関係においては独立の使用権を有するものであつて控訴人鶴山はこれを転借したものというべきである。なお本件家屋の二階部分については控訴人鶴山と控訴人イワとが共同占有するものであることは当事者間に争がない。また控訴人辰之助においても前記認定のようにその所有家財の一部を屋内に引続いて存置しかつ奈良県下より来阪した際にはその宿泊等の場所として随時任意に使用することにより本件家屋を直接占有するものと認められしかも控訴人鶴山との前説明の趣旨の約定に基く使用関係の設定によつて控訴人鶴山と共同して本件家屋を占有するものと認められる。(控訴人辰之助、イワが本件家屋を控訴人鶴山と共同して占有している事実は控訴人鶴山がこれを転借している事実を認めることを妨げるものではない。)ところで控訴人辰之助の控訴人鶴山に対する前記のような本件家屋の使用関係の設定、つまり転貸につき賃貸人たる被控訴人の承諾がないことは前認定のとおりであり、第三者に対する右のような新たな使用関係の設定が被控訴人に対する関係において未だ背信的行為というまでに至らないものとなすべき特段の事情を認めるべき証拠はないから、被控訴人は控訴人辰之助に対し鶴山との間の使用関係の設定を原因として民法第六一二条により本件家屋賃貸借の解除権を取得したものといわなければならない。そして被控訴人が控訴人辰之助に対し昭和三二年四月一六日到着の書面をもつて控訴人鶴山に対する無断転貸を理由として本件家屋賃貸借契約を解除する旨の意思表示をしたことは当事者間に争がない。そうすると被控訴人と控訴人辰之助の間の右賃貸借は昭和三二年四月一六日限り解除に因つて消滅したものというべきである。そして右賃貸借以外には控訴人辰之助が被控訴人に対して主張し得べき本件家屋占有の正権原については何等の主張立証がない。控訴人鶴山の本件家屋の占有につき被控訴人に主張し得べき正当な権原が存しないことは前示のとおりである。また控訴人イワが本件家屋二階部分を占有するにつき被控訴人に主張し得べき正当な権原の存することは何等の主張立証もない。そうすると被控訴人に対して、控訴人辰之助及び控訴人鶴山は本件家屋を、控訴人イワは本件家屋の二階部分を各明渡すべき義務があり、かつ控訴人辰之助と控訴人鶴山とが前記賃貸借の消滅にも拘らずなお共同して本件家屋の占有を継続する限り、右両名は共同して被控訴人の本件家屋の所有権の行使を不法に妨害するものというべく、被控訴人に対し連帯して賃料相当の損害の賠償として一箇月金七、〇〇〇円の割合による金員(昭和三二年四月一七日以降の本件家屋の約定賃料が一箇月金七、〇〇〇円であることは理由冒頭記載のとおり当事者間に争がない。)を支払うべき義務があること明かである。

以上説示したところによれば被控訴人の本訴請求はすべて理由があるものとして認容すべきもので、これと同旨の原判決は正当で本件控訴は理由がないから民訴法第三八四条によりこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法第八九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 山崎寅之助 山内敏彦 日野達蔵)

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